生来身体(からだ)が弱く兵役も丙種で自身も50歳で終わる人生かなと思っていたので、生命保険も増やして多少なりとも死後妻子の生活の足しになるようにと努力していた。
ところが皮肉にも頑健そのものと信じて疑わなかった妻が50才そこそこで死に、私が生き残ってしまった。依頼周囲の頑健そのものと思っていた人々が次々と亡くなり私のようなひ弱な人間が生き残って今年満91歳を超え、親兄弟親戚の誰よりも長生きしてしまった。差し当たって命を脅かすような病気も無く一体どこまで生き延びるのだろうかと思うとそら恐ろしくなる。ある人に云わせると長生きする人間はそれだけ罪が深く、いつまでも娑婆(しやば)に居て苦しむのだそうであるが、案外その通りだと思わないでもない。
それはさておき最近思うのは一体我れの存在とは何だろうかと云うことである。別に哲学的な理屈を捏ねようと云うつもりはさらさらないが、それにしても己の存在とは大変不思議なものだと思う。
歳を取ると段々睡眠時間が長くなる。最近では夜10時に寝て朝7時に目覚め9時間寝る、昼食が済むと眠たくなり1時間余午睡を取るる、夕食には晩酌をやり眠くなって2時間ほど寝る、合わせて12時間余は寝ており一日24時間の内半分は寝ている勘定にになる。
眠れば必ず夢を見る、夢は辻褄が合わない他愛ないものが多いが、時には現実にその場にいて困ったり悲しんだりして「ああ夢なら良いが」と思って目覚め、ほっとすることもある。現実の世界は五感(六感?)で実感する世界だが夢は脳が描き出す空想の世界だ。つまり私の一日の半分は実存の世界で後の半分は空想の世界に住んでいることになる。人が死んだ現象を永眠したと言うが年を取るにつれて次第に寝ている時間が増えてやがて永久に眠る永眠ということになるのであろうか。
豊臣秀吉の辞世の句
「露とおち、露と消えにしわが身かな、難波のことも夢のまた夢」は、権勢と栄華を極めた秀吉が最後に辿りついた心境として、人生とはそんなものかなと共感できるのも、年のせいだろうか。
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